簡単なことだと判っていた、でも
080:叶えて欲しいことがあります、きっとあなたにとっては簡単なこと
葵との諍いは初めてではない。まだ機関が存続していた頃など作戦や能力の使い方で毎日のように言い争った。罵り合いや皮肉は日常茶飯であったから、常連の飲食店の看板娘にはどうして一緒に住んでいる? などと問われてさらに喧嘩沙汰になった。お前が悪いお前の頭が堅いといつも同じ文句であったのに夜になれば収まり、昼日中に再発するのを繰り返す。離反と再合流と決定的なこと。葛は葵を見捨てたという見解は間違ってないと思うし、その時の行動は今でも悔やんでいる。それにたんを発した単独生活は短くはなかった。一人で眠る夜の深さや恐ろしさや寂寥は久しく感じていなかった葛を打ちのめした。暴力にも孤独にも慣れていた葛の感覚はいつの間にか葵によって書き換えられて不自然さも感じなかった。それが当然である、と。
葛は手に持っていた本を見た。装丁がしっかりしていて漢字と平仮名が入り交じっている。葛とは違う馴染まない手触りのそれは葵が面白いから、と言って葛に贈ったものだ。ちょっとした思い出があってさ、家にあったんだ、これ。そういう葵はひどく切なく微笑んだ。取り戻せない甘酸っぱさと安堵と確信。寂寥や切なさを伴う思い出が葵に多いことに気づいた。葛自身も一般的とは言いがたい育ちであるから何がしかの理由があるのだろうとかってに納得してそのままだ。何も言わない葛に葵は怒ったように葛っていつもそうだな、と笑った。
葛は片付けをやめて炊事場へ向かった。時計を見ればもう夕飯の頃合いだ。和室と洋室が同居する風変わりなこの家は、葵の消息がしれなくなってから葛が購入したものだ。葵の失踪と時を同じくして葛の所属機関が消滅した。非公式的な団体であったから、構成員は皆帰るべき場所へ帰っていった。それは実家であったり新しい職場であったり親しい人のもとであったりした。その時葛は迷わずにこの大陸へとどまるのを決めた。極東にある実家は軍属の家元としてそれなりであるから帰国すれば軍籍を取り戻せるだろう。葛自身が軍の予科生で合った頃に成績優秀者として賜り物をしたくらいであるから障りはなかっただろう。それでも葛は、葵の行方が消えたこの大陸から動けなかった。葵のために待っていたとは思っていないし、葵が帰ってくるとも思っていなかった。固定観念にとらわれない葵があの状態から無事に生還できたとして、一処にとどまるとは限らない。葛は葵と再会しようとか約束していたわけではないのだから。
キシリと廊下が軋んで葛が茫洋と奥を見た。そこには使われていなかった部屋があり、葵が自室として確保した。葵は帰ってきた。少し怪我をしていたが今では治っている。過去のしがらみも含めて葛は葵と何度か諍いをし、誤解をして、それでも二人は一緒だった。閉め切れられた扉を眺めてから葛は夕飯の支度を始めた。手際よく野菜を刻み調理する。大陸に居を構えても基本として覚えているのは和食であるからどうしても無国籍な料理になる。葵と葛は少し前に大きな諍いをした。殴りあったとか戦闘ではなかった。葛が葵を寄せつけずに詰め寄られてはねつけた。しばらく葵は姿を見せなかったから今度こそ見限られたかと覚悟したがひょっこり帰ってきて部屋へこもった。腹が減れば騒ぐし食事だと知らせれば顔も見せる。二人で食膳をつつきながら冗談さえ言ってみせた。
違う、と思う。はねつける前の葵ではないし、そんなものを気にしても来なかったのに、違うと思う。献立で喜びもすれば文句もつける。同居を始めたばかりの頃のような据わりの悪さや媚や遠慮もない。それでも葛には葵がまるですっかり入れ替わった別人であるかのような印象を受けた。後ろから声をかけられた時など誰かわからずにはっと身構えてしまう。葛が葵をはねつけたのだから、と判っているはずなのに毀れたそれを目にすると葛が怯む。作業が終わると葛は鍋に蓋をし、調理具を片付ける。葛が一人の時は食事さえ摂らなかったが葵に知れて面倒な事になった。葵はもう帰ってこないかもしれないと思いながら食べた食事は味気なく、調味料の減りを見て間違いに気付いたり腹を壊したりした。
部屋の前に立つ。部屋に気配はあるから葵はいるのだろう。ノックして呼びかけると答えがあって、葛は食事が作ってあることと自分は気にせず腹が減ったら食べておけと言付けて自室へ引き取った。整理を再開する。葵と共同経営をしていた写真館は葵の行方がしれなくなって機関が消えた時に葛がたたんだ。葛が私物の処分と同時に葵の私物も少し選り分けて処分した。一人で暮らすつもりであったし、葵に至ってはその生死さえ判然としなかったので遺品のつもりで選り分けた。後で葵に詫びたがまぁいいよとあっさり葵は言ってのけた。
蔵書をまとめて紐でくくる。帳面は中身を確かめてから保存と処分とを区別できるようにする。洋墨やペン、鉛筆などの消耗品は整理しない。カメラを手にとって葛が少し考え込んだ。写真館を営むにあたって撮影技術を覚えた。現像方法も学んだし、何より。
葵と共有できる事象だった
カメラを捨てたら葛はもう葵とつながっている証や拠り所さえなくすような気がして、惜しがって処分しないふりをしてとっておいていた。カメラは高いから、というのは言い訳だと知っている。葛はまだ、あの不自由で楽しかった頃を忘れられない。
扉を開閉する軋みと廊下を踏む足音がして葛は葵が食事でも取りに行ったかと肩を下ろした。葛が手酷くはねつけてもこもりきりでも葵は葛のところに帰ってきれくれてそれだけでいいはずなのに葛はまだ諦め悪くこの家にいる。だから葛は扉が叩かれた時に飛び上がるほど驚いた。誰何すると葵の朗らかな声でちょっといいかな、と断りがあった。葛が扉を開ける。旅支度のように私物を片づけかけている葛の私室に葵が刹那、痛いような顔をした。
「出てくの」
「いつでも消えられるようにしておこうと思っただけだ」
「それ、出てくってことだろ!」
憤る葵の声が耳を刺す強さと痛みを伴う。甲高いようなそれは怒号というより悲鳴に近い。葵は葛の腕を引いて部屋に入ると扉を閉めた。気配の移動を葛が知ってから間がないから葵も食事を取っていないのだろう。
「腹が減っているから苛立つのだろう、なにか食べてくればいい」
「葛は」
「いらない」
食欲はなかった。それは本当だった。葛は葵と諍いを起こしてから熱意が消えた。葵の生死が判らなかった時でさえ食事も睡眠もとれていたのに、葵が隣にいるのに葛には生きる気力がない。それは、たぶん。
葵がいないなら葛はいらない
依存だと喉の奥が苦い。誰かに頼って生きてきたわけではないと思う反面で、葛の価値観も判断も全部組織ありきであったことに気づいてしまう。葛が葛だけになった時、葛は何をどうすればいいのかも判らない。
黙って背を向けると作業を再開する。本や帳面を確かめていく葛の背中に葵の視線が刺さる。疎んじてくれればいい。嫌ってくれればいい。自分を嫌う相手を嫌いになるのは良心も痛まないから。葵がドサリと寝台に腰を下ろした。単純に座れる場所がない。葛は手を止めずにそれを横目に見ると目線を戻した。もう何もかも終わってしまえばよかった。自分の、命さえも。葛は目を眇めた。葵の訪いの理由が判らない。目的も結果さえも明確にしてきた葵にしては胡乱な行動だ。言い出しかねて脚を揺らしては据わりの悪さに顔をしかめる。
「葛、あのね」
葵の声が揺らいだ。割れる。明朗闊達な声が動揺していた。
「やっぱりだめだったよ。葛がダメだって言うならオレもやめようと思ったんだけど、やっぱりオレ」
葛が好きだよ
ゴクリと、喉が鳴った。喉仏が上下する。葛は背を向けたまま何とも言わない。言葉がなかった。好きになれなどとは言えない。自ら遠ざけるような真似をしたのだ。嫌いになれとも言えない。そうしてくれたらとても助かる、だがきっとすごく痛い。
ふわりと、香った。甘いようなそれに葛が気づいた時には葵の腕が葛を抱きしめていた。葛の白いうなじへ鼻を寄せて頬をつける。
「…はな、せ」
「嫌だ」
「はなせ!」
「いやだ!」
葵の腕に力が入る。きつく抱きしめられて、それが嬉しい。それが、悲しい。葵と葛が所属していた機関は消えた。二人をつなぐものはもう何もなかった。加えて同性同士であればなお、付き合いを保つのは難しかった。それが友情ではなく、恋愛であれば、なお。
手が震えた。葵の腕を手を指を剥がそうと爪を立てる葛の手が、震えた。引き離さなくてはならない。心を殺せ。一緒になんかいたく、ない。葛の喉がヒュウヒュウと笛のように鳴った。唾液が飲み込めなくて唇が紅く湿っていく。指先が震えた。ぐらぐらと視界が揺れて酔った時のように重心さえ定まらない。気持ち悪い。目眩がした。急に眩しくなる視界と薄暗くなるのとを繰り返す。グラグラとしたそれに葛が膝をつく。収まらない。葵も気づいて拘束を弛めた。葛はその手を振り払ってかけ出した。そのまま便所へ直行した。便器にしがみつくようにして嘔吐を繰り返す。何も食べていないから喉を灼く胃液を吐くだけだ。それでも空気が逆流する息苦しさに何度も喘いで吐いた。
後を追っていた葵が葛の背中を擦った。情けなかった。葛の目が潤んだ。ぽたぽたと落涙した。
「大丈夫?」
気遣いながら葵はじっと葛を見ている。葵の肉桂色の瞳が感じられた。はぁはぁと荒い呼吸のまま、葛は振り向かなかった。釦を外して襟を弛める。ひゅうひゅうと喉が鳴る。
「ごめんね、葛。オレやっぱり、葛が好きだよ。葛がオレを嫌いでも、オレはお前が好きだよ」
ぅぐ、と喉が詰まる。息苦しい。涙が浮かんだ。食いしばる唇をきつく噛んだ。ビリビリ痺れる痛みと頤を伝うぬるい体液に出血したのだと知る。吐瀉物と血液に汚れた葛の頤は白く尖っている。
「ごめんね、葛のそばに居てもいい? 辛いかな。ごめんね。葛の近くに、いたいんだ」
葛の背中をきゅうっと葵の手が掴んだ。ぶるぶるとした震えまで判る。葛のシャツを掴んだまま、葵は震えていた。
「ごめんね、ごめん」
好きになって、ごめんね
洟をすする音がした。葵は感情的で情に篤い。細い体のどこにと思うほど葵の体は瞬間的な熱量に膨れ上がる。後先など考えない。その時葵がしたいことをする。それでいてちゃんと事態に対応するだけの能力があるのだから嫌になる。
「かずら、ごめんね? ごめん」
「――謝るな!」
ほとばしる激情が葛の喉を灼いた。ひりつく喉を叱咤して葛は言葉を吐いた。
葛は葵の謝罪が欲しかったわけではない。そんなものはどうでもいいのだ。葵の体が跳ね上がるように震えた。葵は明らかに葛の一挙一動に過敏になっている。お前はそんな性質じゃないのに。反対も意見も聞きもしないのが、三好葵、なのに。今の葵はひどく脆弱で胡乱で外に依存しすぎている。葵は葛が好きでだからこそ葛を恐れている。嫌われたくない。根底はそれだった。とさ、と葵が葛の背中に顔を当てて伏せた。二人して便所で座り込んで何をしていると思うのに葛は身動きひとつ取れなかった。ぐずぐずと葵が泣きだした。
「ごめん。ごめん、ごめんね…でもおれ、葛、忘れたくないし…忘れることなんかできない…」
葛の喉の奥を灼くものがある。ひどく、強い。ひどく、痛い。忘れられない。
「だって、好きなんだ。好きです。ごめんね? オレ、葛の事好きだよ。本当に。好きです。好きだ。葛のこと考えたらオレなんかいないほうがいいって、でもオレは、葛のそばにいたいくらい好きで。お願いします…――そばに、いさせて」
葛がいなかったら、オレはきっと、いないから。
うわぁあぁああ、と葵の泣き声がした。ひくひくとしゃくりあげる音さえする。シャツに染みた涙が背中をじっとりと濡らす。
「ごめんね、ごめん……ご、めん」
葛が倦んだ。本来は明朗闊達である葵をここまで倦ませた自分が嫌だった。こんな、男。苦い味が口に広がる。死ねばいい。葵を泣かせるようなこんな自分は、嫌いだ。未練がましく大陸に居座って、目的である葵を泣かせて。だから。だからこんな自分は、――しねばいい
「かずら!」
葵の声に葛がビクンと跳ね上がった。振り払うように振り向くと涙と洟にまみれた葵が葛を見ていた。
「いなくならないよな? 葛は、オレをおいて行ったりしないよな?」
泣いているのに声は震えていない。それが葵の、強さ。葛には、ない。
「オレをおいて死んだり、しないよな?」
葛はオレのこと、一人ぼっちにしないよね?
葛の血に汚れた頤を見て葵が青くなった。慌ただしく当て布を探したりしている。痛くない、大丈夫? 葵の気遣う音がした。
「あおい」
葵の動きが止まった。葛は静かに問うた。
それは葛の存在意義だ。何を求められているのか。葛の理由は何なのか。三好葵が、伊波葛を求める理由は何なのか、それこそが、今、唯一葛を葛とする理由だった。
「お前は、俺に何を求める。俺でなければならないのか。代替は可能なのか。俺でなければ、ならない理由なんて、ないだろう――」
冷徹に言い切る葛に葵は困ったように笑って。一言だった。
「葛、笑って」
葛が息を呑む。身動きの取れない葛に葵はあっさりと言った。
「葛の笑顔、好きだよ。葛のことはなんでも好きだけど、笑顔が特に好きなんだ。だからお前には笑っていて欲しいんだよ。オレがいなくなっちゃっても…お前が笑える、なら、オレは、――いなく、なるよ」
葛の唇がわななく。音さえももれない朱唇が震えた。葛の容貌は白皙であるから紅潮などはすぐに反映された。その紅い唇を見て葵は何度も言った。きれいだね、化粧したみたい。好きだな。葵はいつも、言っていた。
きれいだよ。
すきだな。
「ごめんね、かずら。笑って? わらって」
一切の計測を振り切った。葵は困ったように笑って、葛を見つめ続ける。凛とした眉筋が情けなく八の字になり、肉桂色の双眸と一筋だけ化粧筆で刷いたような長い睫毛が瞬く。線が細いなりに葵の造作は整う。基礎が良いのかもしれない。短い髪も双眸もどこか垢抜けた肉桂色をした。細い頤。細い首。ないものを補うように肘までまくる袖や、前を開いた上着。粗暴さを思わせる服装やなりをしながら葵の本質は線が細く、繊細だ。大胆な特殊能力を有しながら設けられた時間制限。それは絶対的な破壊者でいられない葵の弱さと優しさだ。
「葛の笑顔、好きだよ。たまにしか見れないけどさ。でもすごく綺麗だよ」
そういう葵は涙にまみれて泣いている。それがひどく辛かった。
「そういうお前が泣いている。お前こそ、笑えば、いい」
きょとんとしてから葵が。
笑った。
朗らかで楽しげで、人懐こい笑顔。
「かずら、わらって?」
わらって
葛の目縁から涙があふれた。人前で泣くなど、いつ以来かさえしれない。それなのに葵はあっさりと葛を泣かせた。葛は泣いた。泣いて、泣いて泣いて泣いて泣いて。
「わらって」
声を上げて泣いた。
《了》